東洋文庫416『朝鮮の料理書』(鄭大聲編訳)
| キムチの主役の唐辛子はどこから来た? 「料理」から見えてくる朝鮮半島。 |
朝鮮半島シリーズ第2弾のテーマは「料理」。
以前、韓国に仕事で行った際、ついてくれた韓国人ガイド(元高校歴史教師)が、「唐辛子」について面白いことを教えてくれた。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、大砲の弾の中に唐辛子を込め、目つぶしとして使ったのだという。戦後、戦地から唐辛子が生え、それをキムチに入れるようになった。トリビアな話だが、その時は「へぇー」で終わっていた。突然、この話を思い出して、ジャパンナレッジで調べてみることにした。
東洋文庫には格好の書がある。その名も『朝鮮の料理書』。「屠門大嚼」(1611年)、「飲食知味方」(1600年代)、「閨閤叢書」(1800年代前半)の3冊が収録されている。
というわけで「キムチ」で『朝鮮の料理書』を検索。8件ヒット! ただしキムチは「朝鮮の漬物の総称」なので、唐辛子の起源とは関係ない。実際「ニッポニカ」(ジャパンナレッジ)にはこんな記述も。
〈キムチにトウガラシが用いられるようになったのは17世紀の後半ごろからで、このころからキムチの作り方が多様になった〉
では、トウガラシor唐辛子では?
なんと『朝鮮の料理書』でのヒット数は0件!
またまた「ニッポニカ」で「トウガラシ」を調べてみる。
〈日本への渡来は、天文11年(1542)ポルトガル人によって伝来したとされる(『草木六部』)。ほかに文禄年中(1592~96)豊臣秀吉出兵のおりに高麗より(『花譜』)、慶長10年(1605)朝鮮より(『対州編年略』)などの諸説がある〉
奇っ怪である。朝鮮の1600年代の書には「倭国から来た南蛮椒(=唐辛子)」という記述もある。コロンブスが南米で発見した唐辛子は、やがて欧州全体に広まり、アジアにやってきたのは16世紀。いったいこの唐辛子、朝鮮が先か? 日本が先か?
「屠門大嚼」にこんなくだりがある。
〈我が国(朝鮮)は、中国からみれば片田舎とはいえ、海や大きな江(かわ)がめぐり、高い山がそばだっているので、産物が豊富である〉
自分とこは田舎だけど、喰いもんはうまい! この謙遜と自負。ちっぽけなことにこだわってはいけませんな。反省。どっちが先とは問わず、わずかな期間で、唐辛子を国民食にしてしまった朝鮮の食文化に、ここは拍手を送りたい。
| ジャンル | フード/実用 |
|---|---|
| 時代 ・ 舞台 | 1600~1800年代の朝鮮半島(韓国・北朝鮮) |
| 読後に一言 | ああ、キムチ食べたい(焼き肉も!) |
| 効用 | 〈醤油を入れた水の方を沸かしてから、魚を入れ、酒を少し落すと骨がやわらかくなる〉など、実用的な記述も豊富。 |
| 印象深い一節 ・ 名言 | 元来、食欲と色欲は人間の本性である。(「屠門大嚼」序) |
| 類書 |
朝鮮半島の四季折々『朝鮮歳時記』(東洋文庫193) 隣国の料理書『中国の食譜』(東洋文庫594 ) |
東洋文庫222『朝鮮の悲劇』(F.A.マッケンジー著、渡部学訳注)
| すべてはここから始まった?! 100年前のレポートから考える"朝鮮半島" |
私は韓国に行ったことがあるが、北朝鮮にはない。これが大方の日本人の“距離”である。だが近くて遠い国のトップは死に、混乱の幕は開けた。今後、あの半島がどうなるのか。このことは多分、他人事じゃない。
民族的に近いというのもあるけれど、それだけじゃない。日本は、朝鮮半島の歴史に手を突っ込んだという過去を持つ。正直、「いつまで謝り続けないといけないの?」と憤慨する気持ちにもなるが、それでもやってしまった事実は動かせない。では何を? そのヒントとなるのが、カナダ人ジャーナリストの手によって書かれた『朝鮮の悲劇』である。出版は1908年。日露戦争終結の3年後、日韓併合の2年前のレポートだ。
外国人の目から見た朝鮮半島は、こんな風だった。
〈私はあたかも、現世からほんとうのアリスの不思議な国に来たような錯覚を覚えた。すべてがたいへん幻想的であり、この世のどこよりもあまりに異質的であり、不条理であり、よそよそしく、そして奇妙であった……〉
鎖国をしていたアジアの小国。そこに日本はあたかも欧米の一員として乗り込んでいく。本書によれば、当初日本は、朝鮮半島の人々にも、欧米人にも、歓迎されていたという。ふるまいのひどかったロシア人を、半島から追い出したということで、評価もあがった。
だが徐々に、日本は正体を露わにする。地名を日本語化し、日本時間を使わせる。朝鮮人労働者の賃金を低く抑え、日本国内で禁止しているアヘンを解禁する。
自己批判もこめて、著者はいう(ちなみに著者も、相当な日本贔屓であった)。
〈日本国民に対する好意という強い感情――つまり、戦時中に示したこの国の立派な行為から来る感情――が、日本を告発することなく過ごしてしまうことになった……〉
ほんの少し前までは、朝鮮とほとんど変わらぬ暮らしをしていた日本が、諸外国が下に見ている間に、あれよあれよという間に、肩を並べてしまった。これは誇っていい栄光の歴史だろう。だが一方で、急速な発展は、国の借金&重税という歪みを生んだ。そのしわ寄せは、朝鮮半島へ向かった。これが著者の見立てだ。100年前に、リアルタイムに書いているにもかかわらず、著者の視点はいまなお正しく、有効だ。
一国の発展に「しわ寄せ」が必須なのだとしたら……私たちは発展すること自体を、疑ってかからないといけないのかもしれない。
東洋文庫141、624、627『マッテオ・リッチ伝』(平川祐弘著)
| 郷に入れば郷に従え――人生を見事に 「更新」したイタリア人宣教師の生き方とは? |
突然、「更新」という言葉が気になり始めた。特にPC関係は更新だらけである。「更新せよ」「更新せよ」……。自分自身の「更新」に失敗し続けている身としては、この言葉は痛い。そこで「日本国語大辞典」(ジャパンナレッジ)で調べてみると、〈すっかり新しく変えること〉とある。初出は『続日本紀』の慶雲2(705)年の記事だから、気の遠くなるような昔から使われていたのだ。では、「更新」に相応しい東洋文庫は?
検索していたら名言を見つけましたよ。
〈旅行とは知性上の冒険であり、意志上の努力であり、感性世界の更新である〉
どうです? 旅立ちのはなむけの言葉としても合っているし、人生を旅の連続と捉えるならば、まさに的を射たり、である。何の本の言葉かというと、『マッテオ・リッチ伝』の作者の言葉。「マテオ・リッチ」というほうが、世間的には通りがいいようだが、この人は、時代的には秀吉が天下を獲っていた頃、中国でキリスト教の布教をしていた、イタリア生まれのイエズス会宣教師である。
何がすごいかって、読んでみて驚きましたよ。本書によれば、〈西洋人ではじめて中国語の読み書きを習い、はじめて明朝シナの都に住みつくことを得たイエズス会士〉だというのである。そして中国にいる間に、〈『天主実義』『交友論』『畸人十篇』『幾何原本』『坤輿万国全図』など、二十二点の漢文教書と科学書を編刊〉(ジャパンナレッジ「国史大辞典」)しているのだ。
本書は、小泉八雲研究でも名高い、比較文学者の平川祐弘が手がけた。全3巻のうち、半分がリッチ伝、半分がリッチを軸とした比較文化・宗教論だ。
リッチの面白いところは、ヨーロッパ的なスタンスを、中国に着くや、なにもかも「更新」してしまったところにある。名前は「利瑪竇(りまとう)」に変えるは、法衣を脱いで中国の儒者の服を着るは、挙げ句、中国語で読み書きするのだから、OSごと更新してしまったようなものだ。中国人の先祖崇拝も「宗教ではない」と許したものだから、キリスト教も急速に広まっていく。だが、リッチの死後、イエズス会のライバル・ドミニコ会などがこれに噛みついた。中国に行っても「更新」せずに居丈高に布教した彼らは、相手にされなかったのだ。教皇は非更新側の肩を持ち、やがて中国でキリスト教は尻すぼんでいった。
くだらぬプライドは「更新」の邪魔をする。歴史はそれを証明している。
東洋文庫240『日本奥地紀行』(イサベラ・バード著、高梨健吉訳)
| かつての日本人の独立独歩の気概を イギリス女性の紀行の中に見た。 |
年明けそうそう情けない告白ではあるけれど、昨年は、「日本についてなーんにも知らなかった」と気づかされた1年だった。いろんなことが起きなければ、きっと知らないまま過ぎたのだろう。外にばかり目が行っていて、自分の足下についてはまったくわかっていなかった、ということです。だとするならば、「異邦人」のポジションで、日本という国を、再検証してみたらどうだろうか? それが個人的な2012年のテーマです。
というわけで、“旅人”の視線に同化して日本を見てみると――。その格好の書が、イギリスの女性旅行家イサベラ(イザベラ=Isabella)・バードの『日本奥地紀行』(原題「日本の未踏の土地」)だ。72歳で亡くなるまで、アメリカを皮切りに、マレー諸島やチベット、ペルシャや韓国、中国……と世界各地(特にアジアを中心に)を旅した。『日本奥地紀行』は女史47歳の時(明治11年)、3か月かけて東北を旅した記録だ。
民俗学や地誌的にも貴重な文献なんだろうけど、私はバードの日本人評のほうにむしろ興味を惹かれた。バードの紀行には次の3つの単語が頻出する。「礼儀正しい」「勤勉」「素朴」。
例えば、新潟から山形へ向かう峠の途中。バードは商人たちが荷を運んでいるところに遭遇する。虫に喰われても手がふさがっているので追い払えず、傷口からは血がしたたり落ち、それが汗で流されていた。
〈実に「額に汗して」(『旧約聖書』創世記)彼らは家族のためにパンを得ようとまじめに人生を生きているのである。彼らは苦しみ、烈しい労働をしているけれども、まったく独立独歩の人間である。私はこのふしぎな地方で、一人も乞食に出会ったことはない〉
バードはその真摯な姿に、素直に感動しながら、さらに奥地へと足を進めていく。彼女の見た労働者たちには、「独立独歩」の気概があった。
だからといってここに「古き良き日本」があったなどとはいわない。明治初年に戻れるはずもない。だが、自分に「独立独歩」の気概があるか、と問うことはできる。結局、御上(おかみ)に依存し、周囲に依存し、なーんも考えずにダラダラしていたからこそ、事が起こった時に慌ててしまったのではないか。決してそういう内容の本ではないけれど、個人的には身につまされてしまったのでした。
ああ、自律し、自立せねばなりません。
東洋文庫192、196『江戸小咄集 1、2』(宮尾しげを編注)
| 小洒落たショート&ショート、江戸の「小咄集」で大いに笑って、新年に備えよう。 |
1年前、このコラムの締めは、『醒睡笑』であった。で、今回もテーマは「笑い」。「ココロ弾むような話題で締めよう」という安易な発想2連ちゃんだが、新年を「笑い」で迎えんとする心持ちは、実は“江戸人”の基本でもあったらしい。「初笑い」をジャパンナレッジの「日本国語大辞典」で調べてみると、初出は1780年。で、実際このあたりに「江戸小咄」が次々と登場するのだ(それを編んだのが、『江戸小咄集 1、2』である)。この「小咄集」、それぞれの序を丹念に読んで見ると、実際どれも「正月」の刊行となっている。そのうちのひとつ。
〈古めかしきをすてゝ、新らしい一ツゑりの咄を一冊となして、はつ春の笑いぞめとなしぬ〉
(「今歳笑(ことしわらい)」序)
これも江戸人の智恵かしらん? どんな年であろうが、年が明けたら笑って迎える。とはいえ、笑うのもムズカシイから、「小咄集」の登場と相成る、というワケ。
では、どんなお笑いで新年を迎えたかって?
私の好きな小咄を3編、選りすぐって紹介しよう。
〈(盗人、殺される前に辞世の句をといわれ、)
「かゝるときさこそ命の惜からめ兼てなき身と思ひしらずば」
皆人聞いて「ソレハ太田道灌の歌じゃが」
盗人「アイこれが一生の盗納めでござります」〉
(「俗談今歳花時(ぞくだんことしばなし)」)
教養のある泥棒というのもオツですな。ではお次。
〈(昼間から夫婦でしているとこに隣のおかみさんがやってきた。灸をしているのだと思い、)
「おかミさんよいことを、なさりますな」といへば、紙帳の内から「ハアそこからも見へますか」〉
(「笑談聞童子(しょうだんきくどうじ)」)
下ネタはいつの時代も不滅なようで。ではラスト。
〈蟹なまこに向ひ「貴様は頭がしりか、尻があたまだか」なまこ「そふいふ貴様のあるくのは、行くのか帰るのか」〉
(「笑談聞童子(しょうだんきくどうじ)」)
どっちもどっち。目くそ鼻くそを笑う、の類だ。2011年という年は、蟹がなまこを責める如く、他人を責め立てることに日本中が終始してしまった気がする。責めても前には進まない。もちろん、笑いも生まれない。ここは粋な江戸人に倣って、せめて笑おうではありませんか。「呵呵大笑」していれば、きっといいことがある、よね?

